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【News113】1973~75年頃の北の強制収容所 ―北に渡ったある在日青年彫刻家の体験― 守る会名誉共同代表 小川晴久

 昨年11月22日都内でオペラ歌手田月仙さんの半生を描いた記録映画『海峡のアリア』の上映と講演の夕べがありました。守る会主催。佐伯浩明代表の発案で、月仙さんにお願いして実現しました。私(小川)は冒頭三十分時間を頂き、守る会誕生の経緯が、月仙さんのお母さん(金甲仙さん)が中野駅前で経営されていた焼き肉屋さん(明月苑)とそこでのお母さんたちの証言に深い関わりがあったため、そのことと月仙さんのお兄さんの手紙のことを話させて頂きました。

 

 月仙さんが1985年に平壌に招かれた時、1960年に北に渡っていたお兄さん(けんじさん)から手渡されたお母さんへの手紙は、当局の検閲を受けることなく、北に渡った9万3千余人の帰国者たちの良心の声を伝えるもので、とても貴重なものです。この手紙は2007年に刊行され、小学館のノンフィクション賞を受賞した月仙さんの単行本『海峡のアリア』(111~117頁)に掲載されています。全文四千字程の手紙です。

 

 けんじさんは1960年4月に十代後半の年で北に渡りました。翌5月に咸鏡南道の高校に入学し、63年4月に卒業後、5月に平壌の美術大学彫刻学科に入学します。彼はミケランジェロを世界で一番尊敬し、彫刻家の道を目指していました。

 弟三人も帰国していましたので、生活が苦しかったのでしょうか、彼は大学在学中病気になってしまいます。咸鏡の親戚でも弟たちの面倒をよく見てもらえず、1966年にはすぐ下の弟と二人で黄海に行って一番下の弟を探してきたりしています。

 

 「しかし、日増しに悪化する祖国の現実の前で、私の精神と肉体は極度に疲れました。67年7月、私は病気で大学を中退しました。」1966年から67年にかけての所での記述です。1967年5月に唯一思想(金日成の思想だけを知ればよいという全体主義思想)が中央委員会総会で採択されますが、けんじさんはこの風潮と闘っていたことを想わせます。

 

 大学を中退した翌年2月からけんじさんは彫刻作品「根拠地の春―パルチザンと少年―」を作り始め、これがこの年の「国家創建20周年国家美術展覧会」に入選します。入選したからでしょうか、翌年1月から弟たち三人と地方(咸鏡南道徳城郡)で一緒に住めるようになります。「一緒に住めるようになった喜びで、力を合わせて生活しました。」と。その翌月から「より積極的な創作活動を開始して、二次作品“白頭山”を作りました。」

 

 四人兄弟揃っての楽しい生活は5か月しか続きませんでした。その年の7月、彼とすぐ下の弟のひろしさんが政治犯とされ、四人揃って1年の取り調べののち(監獄での)、ヨドックと思われる強制収容所へ入れられてしまいます。ひろしさんは収容所に移されて4か月後、撲殺されてしまいます。

 

 7年7か月間の強制収容所生活で、珍しいことが一つありました。1973年9月けんじさんの生命が危うくなったので結核病院に秘密裏に入院させられ、2年後の10月に収容所に戻されたことです。北朝鮮の強制収容所が今の様にひどい所になるのは、1972年から3年以降と思われますが、けんじさんの2年間の結核病院での闘病生活は珍しいケースではないでしょうか。

 

 病院のスタッフや患者さんたちの真心によってけんじさんは生命を救われたとこの手紙は伝えてくれます。1973年9月から75年9月までの結核病院での治療と闘病生活、強制収容所収容期間中のこの2年間の措置、これはけんじさんの人徳と収容所に入れられた同じ境遇の仲間たちの努力の賜物だったのではないか、そんな想像をかき立てる1985年のけんじさんの手紙です。けんじさんは収容所から釈放後も、1990年に40代半ばで他界するまで、闘い続けました。

 

 当日上映された記録映画に1985年当時のけんじさんの姿が出てきます。ここに掲げた若きけんじさんとはちがう、30代後半のけんじさんは忘れることのできない引き締まった映像でした。

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